急速に勢力を伸ばし始めたドイツに対抗するため、1885年、イギリスはいったん拒絶したカーマ3世の保護要求を受け入れている。同時に他の7首長に対しても保護を通知した。イギリスはツワナ人の領域、すなわち西のモロポ川の北岸から始まり、東のリンポポ川の北岸を南限として、これより北をベチュアナランド(Bechuanaland、現在のボツワナ)と呼び、保護領とした。イギリスは土地の所有権は主張せず、アフリカーナーの土地に対する要求も認めなかったため、ツワナ人の土地が守られたことになる。
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イギリスの興味は税金のみにあった。ボツワナから収益を上げることは考えておらず、保護領を維持するだけの税金で満足していた。イギリスにとってはボツワナは単にケープ植民地を守る天然の防壁にすぎなかったからだ。ツワナのコシにとっては話が違う。自らの年貢の権利が犯されるからだ、しかし、ボーア人の侵入を抑えるためにはしかたがなかった。カーマ3世は年貢よりもングワトに対する干渉と南アフリカへの併合を恐れていた。
アフリカを股にかけるセシル・ローズ(当時の時事風刺漫画より)
1905年のアフリカ南部 金鉱の位置が黄色で示されている。
セシル・ローズの野望
次にツワナ人の前に現れた敵はケープ植民地の政治家セシル・ローズである。ローズはイギリスに生まれ、ケープ植民地に渡って財産を築き、国王から地域の統治責任を賜った特許会社であるイギリス南アフリカ会社 (BSAC) を設立した。ローズは地中海に面するエジプトのカイロからアフリカの南端ケープタウンに至る鉄道を建設し、アフリカ大陸を縦の線で支配することを考えていた。ローズは帝国主義的な領土拡張、フランスに対する対抗を第一の使命としていたからだ。まずはケープ植民地と1889年にローズが権利を獲得したばかりの南ローデシア(現在のジンバブエ)を接続しなければならない。
こうなると真っ先に標的になるのがケープ植民地と南ローデシアの間に横たわるベチュアナランドである。ローズとしても安価な鉱山労働者の供給源であるボツワナとの直接的な紛争は避けたかった。そこで、イギリス本国に対し、ベチュアナランドをローズの支配下に置くことを提案した。ローズがベチュアナランドを支配すれば、アフリカ南部におけるイギリスの権益が確実になるというのが理由である。
1894年、イギリスがローズの提案を受け入れる計画が明らかになると、翌年、カーマ3世、クウェナの首長セベレ、ングワケツェの首長バトエンの三人が直接イギリス本国に抗議のため渡航する。政府はもちろん、国教会や当時ようやく運動となっていたアフリカ人の土地所有を認めることを主張する団体を訪れ、影響を与えることに成功。ローズにベチュアナランドの権利は与えられなかった。しかし、東部ベチュアナランドのごく細長い土地がローズのイギリス南アフリカ会社に譲渡されたため、鉄道自体の建設は進められた。 同年、ドラケンスバーグ山脈の高峰コンパス山の北100kmに位置するド・アールからダイヤモンド採掘の中心地キンバリー、プレトリアの東200kmに広がるマフェキンを経由し現在ではジンバブエ第2の都市に成長したブラワヨに至る鉄道が完成、1897年には東海岸のベイラ港へ向かう鉄道と接続した。
ベチュアナランドの併合
イギリスは一時的に後退したものの、ベチュアナランドを放置するつもりもなかった。時期を見てケープ植民地に併合する計画であった。しかし1910年にアフリカーナーが南アフリカ連邦を形成、同年ベチュアナランドを一方的に併合してしまう。カーマ3世と他の首長は再度イギリスに保護を要請した。当時すでに南アフリカ連邦内でアフリカ人の諸権利を制限、剥奪する法律が続々と制定されていることに気づいていたからだ。結局イギリスはアフリカーナー側から何度交渉を持ちかけられても南アフリカ連邦によるベチュアナランドの併合を認めなかった。
しかし、ここに至ってもイギリスはベチュアナランドにおける植民地経営には関心がなかった。ローズが建設した1本の鉄道を使うだけで、ベチュアナランド内部を相互接続する鉄道、道路の整備には関心がなかった。ローズが引いた鉄道の営業キロ数の推移を見ると、当初634kmだった鉄道は1921年に管轄がローデシアからベチュアナランドに移管された時点で全く延びていない。1966年に独立した当時も同じ営業キロ数である。イギリスは産業の育成、教育や医療の普及にはまったく取り組まず、植民地政府すら置いていない。1891年から1963年までイギリス高等弁務官は南アフリカのマフェキンに留まったままだった。イギリスは都市も建設していない。現在のボツワナの首都ハボローネは1880年代にソト人トゥロクワ族の村として始まった。たまたまローズの鉄道が4km西を通過し、駅が置かれたため、1962年には人口が4000人まで増えてはいた。しかし、鉄道駅以外の社会的インフラは備わっていない。水が豊かであったこと、他にめぼしい都市がなかったことから1963年に将来の首都として選ばれている。結局のところ、イギリスの保護領ベチュアナランドに対する視点は安価な労働力の供給源というものに過ぎなかったのだ。
1910年当時人口10万人を上回っていたアフリカ南部の都市は、南アフリカのケープタウンとヨハネスブルグだけであった。ヨハネスブルグは現在に至るまで鉱山都市である。鉱業を成立させるためには多大な資本投資が必要であり、多量の労働者を用いるため、人件費もかさむ。イギリスは蒸気機関、電力設備などの導入を控え、税金の支払いのためだけにベチュアナランドから働きに出てきたツワナ人労働者を酷使した。ベチュアナランド内に産業はなく、ヨハネバーグまでは国境から200kmしか離れていない。労働者を運ぶ鉄道もある。ツワナ人に支払う人件費は大半が税金として還流するため、結局、資本を少量投下するだけで貴重な鉱石を入手できることになる。力で押すだけ、ツワナ人を使いつぶすだけのアフリカーナーと比較すると、いったん現金を支払うことでツワナ人の不満をそらしており、巧妙で長続きする支配体制と言えよう。
アフリカの植民地化の結果(第一次世界大戦の直前)
第一次世界大戦
アフリカ南部は第一次世界大戦の戦場とはならなかった。ベチュアナランドの兵士はイギリス人とともにドイツ人と戦いはしたが、ベチュアナランド側では戦闘が起こっていない。しかし、ドイツなどの同盟国側に資源が渡らないようにするため、イギリスによる独占的な貿易体制が強化された。ようやく出現し始めていたアフリカ商人は権利を取り上げられ、植民地内のアフリカ資本の萌芽はつぶされた。
ボツワナにとっては西に接するドイツの植民地の動向が暗示的であった。第一次大戦が終了した1915年、成立したばかりのイギリス自治領南アフリカ連邦軍がナミビアに侵攻し、占領、1920年には占領行為が追認されて南アフリカ連邦の委任統治地域となった。ツワナ人はもはやヨーロッパ人同士の争いを利用することができなくなった。逆にアフリカーナーか彼らと協調する白人国家に包囲されてしまう。
イギリスの政策は国際世論の影響を受けやすいため、第一次世界大戦後は支配するだけではなく、少なくとも現地のアフリカ人の意見を集約する常設機関を置くことになった。1919年には現地人審議会が設置され、イギリス高等弁務官に対し、ツワナ人の問題を勧告することになった。当初はベチュアナランド南東部の首長と貴族だけが参加していたが、1931年にはタワナが、1940年には最大のングワトも代表を送った。このときングワトから派遣されたのがツェケディ・カーマである。彼は独立後のボツワナ初代大統領セレッツェ・カーマの叔父である。現地人審議会の最大の主張は南アフリカ連邦との併合を阻止することであった。南アフリカ共和国は1934年にイギリス連邦内で独立しており、すでのイギリスの直接のコントロールが及ばない状態になっていたからだ。南アフリカ共和国は鉱業から工業へ産業の中心を計画的に移行させてゆく。
第二次世界大戦
第二次世界大戦が始まると、ベチュアナランドの成人男性の5割がイギリスに従い兵役に付いた。最年少は15歳、上限は44歳である。歩兵は北アフリカや中東に派遣され、イタリア戦線にも参加した。砲兵も編成され、枢軸国の航空機を高射砲で撃墜したものもいたという。ツワナの首長も一族を代表して外国で戦った。
ツワナ人の意識は第二次世界大戦後、最初に独立を果たしたサハラ以南の国家、エンクルマの率いるゴールド・コースト(ガーナ)と同様の変化を受けた。一族の地位と年貢を維持することに汲々としていた首長と貴族、税金の支払いだけのために働いていた平民のツワナ人のいずれもが、海外での経験を忘れなかった。このままではいずれアフリカーナーの支配下に入ることは明白であり、自らの領域を自らが治めるしか、生きる道がない。貴族と平民は協調し、自治を勝ち取ることを第一の目標とした。
第二次世界大戦は、ヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国の力関係を完全に逆転させた。1945年時点で、全世界の生産力の5割、輸出の3割を占めたほか、金(きん)の7割、海外投資の8割弱をアメリカ合衆国1国が保有していた。一方、ヨーロッパ諸国はたとえ連合国の一員であったとしても生産設備に甚大な被害を受けており、購買力はなく、アメリカに対する多大な債務を抱えていた。ヨーロッパが立ち直るために何が役立つだろうか。アフリカである。地中海沿岸を除けば、ドイツの攻撃をほとんど受けておらず、生産設備、労働力とも温存されていたからである。交易の際に貴重なドルが必要ないことも大きい。
イギリスは最大の植民地であるインドに頼れなくなっていた。第一次世界大戦参戦時に約束していた独立の約束を反故にした結果、民族運動が高揚していたためである。インドは第二次世界大戦終結後、2年で独立してしまった。こうなると、イギリスにとって南部アフリカの鉱物資源がどうしても必要になる。アフリカに対する搾取が再開された。
しかし、イギリスは第二次世界大戦開戦初期にアメリカ合衆国と結んだ大西洋憲章の解釈の違いも覚えていた。第3条にある「政府形態を選択する人民の権利」をアメリカ合衆国側は全世界に適用されるべきもの、イギリス側はヨーロッパに限定されるものと主張していた。イギリスとしてもアフリカの植民地に頼り続けることは不可能だと想定しており、まず、イギリスに協力的な権力層を人為的に形成し、間接的に独立国を支配する「新植民地主義」に移行することを考えていた。当時の想定だと20世紀中は旧型の植民地経営が可能だと考えられていた。一方、アメリカ合衆国とソビエト連邦は早急な植民地解消を主張しており、結局は、イギリス側の「準備」が整わないまま独立した国も多かった。
南アフリカ共和国はツワナ人の変化、イギリスの政策転換のいずれとも無関係に人種差別政策を強化していく。独立当初は比較的穏健な連合党が権力の座にあったが、1948年の第二次世界大戦後初の総選挙でアフリカーナーが押す国民党が過半数を超える第1党となったからだ。結局国民党は1994年にネルソン・マンデラが大統領として選ばれる直前まで常に第1党に留まり続けた。国民党は選挙に勝利すると、即座にアパルトヘイト体制を確立し、翌1949年には将来の独立を約束していたはずのナミビアを一方的に領土に編入している。
ツワナ人政党の結成
ボツワナ独立の最大の功労者は1921年生まれのセレッツェ・カーマである。カーマ3世の孫であり、生まれながらにングワトの首長の後継者であった。見聞を広めるため、まず南アフリカ共和国で、次にイギリス本国で教育を受けた。1948年、カーマはイギリス人女性と結婚する。1949年にベチュアナランドに帰国すると王位を継承する手はずになっていたが、異人種間の結婚を認めない周囲のアパルトヘイト国家が介入をほのめかし始めた。貴族集団や叔父にも反対されてしまう。イギリス政府はセレッツェ・カーマと叔父のツェケディ・カーマの対立から王位継承者のセレッツェ・カーマをイギリス本国に呼びだし、王位をあきらめない限り帰国を許さなかった。イギリスはアパルトヘイト国家群への影響力が低下することだけを心配していた。セレッツェ・カーマが帰国できないことが分かると、ングワトの植民地政府に対する態度が硬化し始めた。1956年に至りセレッツェ・カーマ自ら王位の継承よりも自治確立を優先し、王位をあきらめ、帰国した。
同年、ングワト議会の副議長に就任、1962年にはベチュアナランド民主党、後のボツワナ民主党を結成した。ただし、セレッツェ・カーマの帰国以前にツワナ人の政党活動は始まっている。ヨハネスブルグの聖職者であったフィリップ・G・マタンテとマラウイの教師K・T・モツェテは1960年にベチュアナランド人民党、後のボツワナ人民党を結成していた。ベチュワナランド人民党は急進的であり、白人入植者の追放、首長を中心とする伝統的政治体制の打破、憲法制定を主張していた。
カーマのボツワナ民主党は当初ングワトの政党であったが、穏健な政策が共感を呼び、全国的な支持を集めた。カーマはヨーロッパに対する反感を頻繁ではなかったが表明することがあった。南アフリカ共和国への併合を恐れた人々はカーマの姿勢を評価した。ベチュアナランドの白人入植者は消極的ではあったがボツワナ民主党を支持した。肝心のイギリスもカーマならコントロールできると考えた。1963年、イギリスはペチュアナランド独立の予定を公開、1964年にはベチュアナランドの選挙人を登録した。1965年、ベチュアナランド最初の議会選挙が実施された。カーマの評判はよく、彼のボツワナ民主党は8割の票を集め、議会の定員31議席中28議席をしめた。カーマはベチュアナランド最初で最後の首相となり、独立に向け準備を整えていった