桜島東側の瀬戸海峡は
桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めた。対岸の鹿児島市は鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としたが間に合わず、東桜島村では混乱によって海岸から転落する者や泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする者が相次いだ。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されており、「科学不信の碑」とも呼ばれている。
桜島対岸の鹿児島市内においては1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出した。鹿児島駅や武駅(現鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となった。市内の混乱は1月17日頃まで続いた。
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噴火によって降り積もった火山灰は火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜島の他の地域でも30cm以上の深さに達した。桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物はほぼ全滅した。耕作が困難となった農地も多く、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住した。移住先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する者もあった。
災害復興のために桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始した。その後の桜島フェリーである。
大正大噴火が終息した後しばらく穏やかな状態となっていたが、1935年(昭和10年)、南岳東側山腹に新たな火口が形成され断続的に噴火を繰り返すようになった。1939年(昭和14年)11月の噴火において熱雲(火砕流)が観察されている。